◎TEA BREAK
父から子へ 親子で42年の歴史
大阪万博の興奮が冷めやらぬ昭和46年秋、現名誉院長である私の父が名古屋のメインストリートである中村区太閤通に杉浦歯科を開院いたしました。その後、息子である私が完全バリアフリー化を行い、同地にリニューアル開院したのが平成22年の秋です。
名古屋市中村区は、名古屋の玄関である名古屋駅の所在地という大都会でありながら、大変歴史が深い土地でもあります。その代表は、なんといっても豊臣秀吉です。中村区は名将・豊臣秀吉の生まれ故郷で、今でもその名残がたくさん残っています。
私どもの医院は太閤通という場所にありますが、もちろんこれは「太閤秀吉」からとった名前ですし、名誉院長が学校医をしている日吉小学校は、秀吉の幼少期の名前である日吉丸からとったものです。
そのほかにも、豊臣小学校、千成通(千成瓢箪は秀吉の馬印)、日吉町など多くの豊臣秀吉にちなんだ学校名や地名が残っている素晴らしいところです。また、加藤清正の出身地としても名高い地でもあります。私はこの歴史と人情があり、大都会でもある中村区が大好きです。
開院以来、親子合わせて42年間、地元の方々に親しまれている中村区で「街に必要な歯科医」を目指してスタッフ一同、地域医療を続けてまいりました。現在も、副院長はじめ同じ志を持った歯科医師の仲間、歯周病の救世主である歯科衛生士、歯科医師のことはなんでもわかるデンタルアシスタント、歯科に特化した管理栄養士、病院の顔である受付・秘書、医療機器の滅菌を担当する専属クリーンスタッフなど総勢20名の医療スタッフで日々の診療にあたっています。
医院の歴史が長いと、通ってこられる患者さんとも、自然と長いおつき合いをすることになります。祖父母に親御さん、そしてお孫さんのご家族三代続けて来院されている患者さんもたくさんいらっしゃいます。
また、患者さんの成長にも立ち会えます。父が診察していた時はまだ子どもで泣きながらフッ素塗布していたのに、現在では50代となり歯周病メンテナンスで私が担当させていただいている患者さんもいます。40代の時から長きにわたり当院に歯周病メンテナンスでかかられている患者さんは、90代となった今でもすべて自分の歯です。親子二代で歯周病と戦い続け、患者さんと一緒に歳を取る幸せを感じながら診療しております。
ときには、父が必死に残してきた歯でも歯周病の末期で、残念ながら歯を抜かないといけない場合が確かにあります。それを私が抜く時は、やはりさみしい気持ちになります。ただ患者さんのことを考え何が最適な治療法か、今までの歴史を振り返り全力で向き合うようにしています。
思えば、私が歯科医師を志したきっかけは、やはり父でした。「今日の治療で患者さんがとても喜んでくれたよ」と話してくれる時の父の笑顔から、歯科医師という仕事の充実感や楽しさが伝わり、幼いながらも「自分もお父さんと同じ仕事をして誰かの役に立ちたい」と思ったのです。
しかし、父のあとを追うように歯科医師を目指して大学を卒業したものの、「もっと患者さんの役に立つ歯科医療を学びたい」という思いが強くなり、大学院に進み研究に明け暮れました。基礎研究の過程で出会った多くの師にはとても感銘を受けました。中でも、「杉浦君、患者さんは自分の家族と思って診療にあたりなさい」という教授からいただいた言葉は、今でも私の中で大切なキャッチフレーズとなっています。
現在では私が、愛知学院大学歯学部で学生さんたちに教育・指導する立場に立たせていただいております。学生さんたちを「患者さんは家族」という教えに導き、未来を担う歯科医師育成にも力を注いでいきたいと思っています。
開業当初の杉浦歯科。昭和47年まで太閣通りを市電が走っていました。写真に写っているのは「名古屋まつりの花電車」。